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柴山矢八(しばやまやはち)

海軍大将、男爵[日本]

1924年 1月27日 死去享年75歳

柴山矢八 - ウィキペディアより引用

柴山 矢八(しばやま やはち、嘉永3年7月13日(1850年8月20日) - 大正13年(1924年)1月27日)は、幕末から明治期の海軍軍人、華族。
最終階級は海軍大将。
男爵。
鹿児島県出身。
経歴= 薩摩藩士・柴山良庵(藩医)の三男。
東郷平八郎は従兄。
薩英戦争時は幼かったため従軍していない。
明治政府には開拓使の一員として仕官し、明治5年(1872年)より2年間アメリカに留学。
帰国後に海軍へ出仕し、中尉に任じられた。
最初の1年間は武庫司に勤務し、水雷製造掛となった。
魚雷・機雷製造現場で働き、研究開発を推進した。
さらに明治12年(1879年)9月15日に水雷練習所長、明治16年(1883年)2月6日には水雷局長に任じられており、水雷の父として賞賛される。
以後も研究・事務を中心に勤務しており、艦隊勤務は少ない。
西南戦争が初陣で砲兵大隊に属した。
明治9年(1876年)に「浅間」乗組員として1年勤めた後は、再び事務に戻っている。
したがって艦長を務めたのも「筑波」・「海門」・「高千穂」の3隻に過ぎない。
明治19年(1886年)2月24日に参謀本部第2局長に就任、この年に西郷従道の随員として欧米各国を視察し、帰国後明治20年(1887年)10月8日に艦政局次長となり、軍令・軍政の要職を歴任する。
しかしこの頃から、同郷の後輩である山本権兵衛が頭角を現し始め、山本ら革新派と柴山ら保守派の派閥争いが水面下で始まっている。
「権兵衛が種まきゃ矢八がほじくる ……

柴山矢八が亡くなってから、100年と299日が経過しました。(36824日)

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