鮫島員規(さめしまかずのり)
海軍大将、男爵[日本]
(日清戦争時の連合艦隊参謀長、弘化2年5月10日生)
1910年 10月14日 死去享年66歳
鮫島 員規(さめしま かずのり、弘化2年5月10日(1845年6月14日) - 明治43年(1910年)10月14日)は、日本の海軍軍人。
階級は海軍大将。
勲等は勲一等。
功級は功二級。
爵位は男爵。
経歴=
薩摩藩士、鮫島新左衛門の長男として鹿児島で生まれる。
戊辰戦争に従軍し、明治4年(1871年)、海軍に入り少尉補任官、「龍驤」乗組。
佐賀の乱、西南戦争に従軍。
その後、参謀本部海軍部第2局長、装甲艦「金剛」艦長、装甲艦「扶桑」艦長を歴任。
明治24年(1891年)、フランスに発注した軍艦「松島」の回航委員長、初代艦長となる。
さらに横須賀鎮守府参謀長、常備艦隊参謀長、海軍大学校長、横須賀鎮守府長官、常備艦隊司令長官などを歴任。
日清戦争時には常備艦隊兼連合艦隊参謀長として黄海海戦に参加、日露戦争では佐世保鎮守府司令長官をつとめた。
明治38年(1905年)、海軍大将に進級。
明治40年(1907年)2月14日、予備役に編入され、同年に男爵となった。
養嗣子鮫島具重は岩倉具視の孫で、太平洋戦争時はブーゲンビル島に駐留した海軍中将。
娘は竹下勇海軍大将と結婚した。
人物=
「寛厚の長者」と評され、部下に全てを任せる人物であった。
日清戦争を目前に連合艦隊を編制した際、伊東祐亨司令長官と坪井航三第1遊撃隊司令官は、持論の単縦陣をはじめ、戦術や運用に関して壮絶な口論を繰り返していたが、参謀長である鮫島は仲裁や妥協案の提示などいっさいしな ……
鮫島員規が亡くなってから、114年と38日が経過しました。(41677日)