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三須宗太郎(みすそうたろう)

海軍大将、男爵[日本]

1921年 12月24日 死去享年67歳

三須宗太郎 - ウィキペディアより引用

三須 宗太郎(みす そうたろう、安政2年8月6日(1855年9月16日) - 大正10年(1921年)12月24日)は、明治の海軍軍人。
官位は海軍大将・正三位・勲一等・功二級・男爵。
近江国(現・滋賀県)出身。
経歴[編集] 彦根藩士三須熊次郎の長男として生まれた。
藩主井伊直弼がペリー来航に際して江戸湾防衛を担当した際、死を覚悟して事前に「宗観院柳暁覚翁居士」の戒名を手に入れて赴任したことにちなみ、熊次郎は藩主の戒名から最初の一字を頂き、長男を宗太郎と命名した。
三須本人も開国に殉じた藩主を尊敬し、元服しても名を改めようとしなかった。
明治4年(1872年)8月、海軍兵学寮に入った。
カリキュラムを修了するまでの7年間、兵学寮に留まったが、生徒の多くが薩摩藩や佐賀藩の出身者で、彦根出身の三須には居心地のよい場所ではなかったらしい。
明治10~11年頃に兵学寮を卒業した三須らは後に兵学校第5期生扱いとなった。
この5期生には伊集院五郎元帥、出羽重遠大将がいる。
出羽も朝敵会津出身であり、薩摩人に独占されていた大将の座を初めて勝ち取った三須・出羽の出現は、海軍の藩閥重視の慣習が廃れた象徴といえる。
三須が陸での座学を終え、練習艦「筑波」に乗り込んで航海術実習に励んでいた明治7年(1874年)春に征台の役、明治10年(1877年)冬に西南戦争と相次いで勃発し、「筑波」は練習艦任務を解かれて戦場に出た。
が、三須たち生徒は下艦の命令を受けず ……

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三須宗太郎が亡くなってから、102年と215日が経過しました。(37471日)