上原正三 氏(うえはらしょうぞう)
脚本家[日本]
2020年 1月2日 死去肝臓がん享年84歳
上原 正三(うえはら しょうぞう、1937年2月6日 - 2020年1月2日)は、日本の脚本家。
沖縄県那覇市出身。
略歴=
警察官である父を持つ5人兄弟の第3子。
太平洋戦争の激化により、1944年9月に一時台湾へ避難する。
1か月後に那覇へ戻る予定だったが、那覇が空襲(十・十空襲)で壊滅したうえ、乗っていた那覇行きの船は約2週間の漂流を経て鹿児島へたどり着き、そこから熊本県に移って疎開生活を送る。
終戦後の1946年に沖縄へ帰郷し、小学生時代は石川市(現・うるま市)、玉城村(現・南城市)で過ごす。
琉球政府立那覇高等学校での高校生時代は映画に夢中で、『シェーン』などの作品に感動し、これが本格的な映画との出会いになった。
中央大学在籍当時はアマチュアで脚本を執筆し、自らの戦争体験を伝えるべく沖縄戦や米軍基地をテーマにした脚本を書いていた[出典 1]。
大学卒業後には肺結核に罹患した一方、療養のために25歳で一時帰郷していた際に母の友人から「同じ映画好き」として誘われ、同郷の金城哲夫と出会う[出典 2]。
先に円谷特技プロダクション(現:円谷プロダクション)に入社した金城の誘いで上京して円谷英二や円谷一と出会い、一に「脚本家になりたいなら、まず賞を取れ」というアドバイスに従って脚本での受賞を目指すと、沖縄戦をテーマにした脚本『収骨』を執筆し、同作を芸術祭一般公募に出品して芸術祭奨励賞を受賞する[出典 3]。
授賞式 ……
上原正三さんが亡くなってから、4年と324日が経ちました。(1785日)