一の宮あつ子 氏(いちのみやあつこ)
女優[日本]
(旧芸名・一の宮敦子)
1991年 2月16日 死去肝不全享年79歳
一の宮 あつ子(いちのみや あつこ、1913年12月29日 - 1991年2月16日)は、日本の女優。
本名は吉田 あつ。
旧芸名に一の宮 敦子。
来歴・人物=
1913年(大正2年)12月29日(月曜日)、東京府東京市神田区旅籠町(現在の東京都千代田区外神田)に、父・勇と母・たまの2人姉妹の妹として生まれる。
生家は江戸時代から太々餅を製造販売していた甘味商だった。
幼時に本郷区湯島に移り、誠之小学校から三輪田高等女学校(現在の三輪田学園高等学校)へ進み、1930年(昭和5年)に卒業。
小学校時代から陸上競技をはじめ、女学校時代には人見絹枝や加賀一郎のコーチを受け、全国大会にも出場した。
1932年(昭和7年)、鈴木傳明らの不二映画社の映画に、加賀一郎の弟が同社の経理・宣伝を担当していた縁で吹き替え走者で出演し、これをきっかけに不二映画社へ女優として入社する。
1933年(昭和8年)、富士山頂観測所を取材した山岳映画『銀嶺富士に甦える』で鈴木伝明の妹役を演じて映画デビュー。
鈴木が名付け親になって一の宮敦子を芸名とする。
不二映画社はこの作品を最後に解散、翌1934年(昭和9年)1月に東京宝塚劇場開場に伴う専属俳優募集に応じ、約1300人の応募者のうち男16人・女9人の合格者の1人として同劇場の研究生となる。
ほかの合格者に澤村宗之助、伊藤雄之助、森野鍛冶哉、伏見信子、三宅邦子らがいた。
舞台に出演する傍ら映画にも出演するようになり、太秦発声映画の『 ……
一の宮あつ子さんが亡くなってから、33年と279日が経ちました。(12332日)