堀川弘通 氏(ほりかわひろみち)
映画監督[日本]
2012年 9月5日 死去食道がん享年97歳
堀川 弘通 (ほりかわ ひろみち、1916年〈大正5年〉12月28日 - 2012年〈平成24年〉9月5日)は、日本の映画監督。
成城大学名誉教授の堀川直義は兄。
来歴=
京都府京都市出身。
東京市立一中(現:九段高校)、成城高等学校(現:成城大学)を経て、1940年、東京帝国大学文学部卒業。
同年、東宝撮影所製作部に演出助手係として入社。
最初に山本嘉次郎の『馬』の盛岡ロケから助監督として参加し、この時にチーフ助監督だった黒澤明と仲良くなり、仕事を終えるといつも2人で飲みに回ったという。
入社1年後にオーバーワークがたたって肺を病み、1年半休職する。
復帰後はすでに監督になった黒澤の作品に就き、『一番美しく』『続姿三四郎』に参加、1945年に軍隊に召集されるが、敗戦となり10月に復員して東宝に戻る。
再び黒澤組に参加し、『わが青春に悔なし』ではチーフ助監督をつとめる。
しかし完成後まもなく病気が再発し、今度は3年半の休職を余儀なくされる。
1950年に復職、東宝争議で他社を転々としていた黒澤も東宝に復帰し、黒澤復帰第一作『生きる』や『七人の侍』に助監督をつとめる。
1955年に『あすなろ物語』(黒澤明脚本)で監督としてデビューするが、黒澤流の妥協を許さない撮り方で撮影したため、途中でフィルムを全て使いきってしまったという。
そのため、会社からの命令で本作撮影後に成瀬巳喜男監督の下で『驟雨』『妻の心』(1951年)の助監督に就き、きっち ……
堀川 弘通氏(ほりかわ・ひろみち=映画監督)5日午後3時、食道がんのため東京都世田谷区の自宅で死去、95歳。京都市出身。葬儀は親族で行い、後日しのぶ会を開く。喪主は長男博史(ひろし)氏。 40年東京帝大文学部卒後、東宝入社。黒沢明監督の映画「わが青春に悔なし」「七人の侍」などで助監督を務め、55年の「あすなろ物語」で監督デビュー。「黒い画集 あるサラリーマンの証言」「アラスカ物語」などの作品を残した。
堀川弘通さんが亡くなってから、12年と77日が経ちました。(4460日)