大谷竹次郎(おおたにたけじろう)
松竹 共同創業者[日本]
1969年 12月27日 死去享年93歳
大谷 竹次郎(おおたに たけじろう、1877年12月13日 - 1969年12月27日)は、兄の白井松次郎とともに松竹を創業した日本の実業家。
来歴・人物=
京都三条柳馬場(現・京都市中京区)の生れ。
父:大谷栄吉、母:しも。
双生児の兄が白井松次郎。
実父栄吉は相撲の興行師で、妻に水場(売店)の経営をさせていた。
女婿(妾腹の娘の夫)が後の松竹社長城戸四郎。
劇場の売店経営から劇場経営へ進出。
1895年(明治28年)に大谷竹次郎が京都阪井座を買収し、その興行主となる。
1902年(明治35年)、京都新京極通に明治座(後の京都松竹座)を開設した。
1905年(明治38年)に兄とともに大阪市南区葦原町に松竹合名会社を設立(白井松次郎社長)。
後に東京新富座買収によって東京に進出して以降は、竹次郎が関東、松次郎が関西を受け持った。
東京の多くの劇場の経営権を握り、1914年(大正3年)に歌舞伎座の社長に就任。
1920年(大正9年)2月、松竹キネマ合名会社を設立し、映画界にも進出した。
関東大震災の際、松竹は東京・横浜の劇場・映画館のうち22館を焼失した。
歌舞伎座は1921年の火災で再建途中だったところを震災に遭った。
松竹キネマは1931年(昭和6年)に日本初の本格的トーキー『マダムと女房』を上映、小林一三の東宝と勢力を二分した。
1937年(昭和12年)、松竹社長に就任(白井松次郎は会長に)。
戦後の1947年(昭和22年)、公職追放となる。
翌年追放解除 ……
大谷竹次郎が亡くなってから、54年と308日が経過しました。(20032日)