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伊達重村(だてしげむら)

陸奥仙台藩主[日本]

(寛政8年4月21日没)

1796年 5月27日 死去享年55歳

伊達重村 - ウィキペディアより引用

伊達 重村(だて しげむら)は、江戸時代中期から後期の大名。
仙台藩7代藩主。
伊達氏23代当主。
官位は従四位上・左近衛権中将。
生涯= 襲封と宝暦疑獄= 寛保2年(1742年)4月19日、6代藩主・伊達宗村の二男として誕生。
幼名は儀八郎。
生母は坂信之(正三郎)の娘・性善院。
延享2年(1745年)に長兄・久米之丞が早世したため世子となる。
その後国村(くにむら)と名乗るが、宝暦5年(1755年)に元服して9代将軍・徳川家重より偏諱を拝領し、重村と改名する。
宝暦6年(1756年)7月、父・宗村の死に伴い家督を相続する。
重村はまだ15歳であったため、若年を理由に幕府より国目付が派遣され、叔父の陸奥一関藩主・田村村隆の後見を受けた。
ところが襲封早々、前年に発生した宝暦の飢饉と、再び悪化の一途を辿り始めた藩財政への対応を巡って、5人の奉行職(奥山良風・津田定康・葦名盛寿・柴田成義・遠藤善信)の間で意見が対立、9月に柴田と遠藤が大條道頼と但木顕行の2人を新たに奉行職につけて人事を刷新するよう求めたのに対して、宗村政権の中核を担ってきた奥山、津田、葦名が反対したことで争いが表面化し、同月には柴田と遠藤の求めに応じた一門の亘理伊達村実・岩出山伊達村通・岩谷堂伊達村望・村富父子と白河村広の5人が、奥山、葦名を解任し大條、但木、中島成康の3人を新たに奉行職に起用するよう重村に進言した。
事態の処理を任された後見役の村隆は、岳父 ……

伊達重村が亡くなってから、228年と176日が経過しました。(83453日)