下田武三 氏(しもだたけぞう)
外交官、元日本野球機構コミッショナー[日本]
1995年 1月22日 死去享年89歳
下田 武三(しもだ たけそう、1907年4月3日 - 1995年1月22日)は、日本の外交官。
外務事務次官、駐米大使、最高裁判所判事、日本野球機構コミッショナー。
東京府出身。
外交官、外務省官僚としてポツダム宣言の翻訳を初め、日米安全保障条約、沖縄返還、日米繊維交渉など、戦後の日米交渉に深く関与した。
プロ野球のコミッショナーとしては、時代の求めていたプロ野球と野球界の近代化に手腕を振るった。
来歴・人物=
教育学者の下田次郎の三男として東京に生まれ、東京高等師範学校附属小学校(現:筑波大学附属小学校)、1925年に東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。
一高を経て、1931年に東京帝国大学法学部卒業、一高時代の1926年、下田らの提唱で一高内に「瑞穂会」が設立された。
同年に外務省入省。
入省後は、フランス語研修(フランストゥール大学、ポワティエ大学)、在フランス大使館、在オランダ大使館、条約局、欧米局、在ソ連大使館などに勤務した。
1945年には条約局第1課長としてポツダム宣言の翻訳に当たった(詳細は同項目参照)。
戦後は大臣官房会計課長、条約局条約課長、賠償庁特殊財産部長、在ヘーグ日本政府在外務事務所所長、駐オランダ代理大使、駐米国公使、条約局長、駐ベルギー大使、駐ソ連大使を経て佐藤栄作内閣で外務事務次官。
次いで1967年から1970年まで駐米大使。
日米安全保障条約や沖縄返還、日米繊維 ……
下田武三さんが亡くなってから、29年と304日が経ちました。(10896日)