松倉勝家(まつくらかついえ)
肥前島原藩主[日本]
(島原の乱を引き起こし、斬首される。寛永15年7月19日没。)
1638年 8月28日 死去斬首享年42歳
松倉 勝家(まつくら かついえ)は、江戸時代前期の大名。
肥前国島原藩2代藩主。
初代藩主・松倉重政の嫡男。
領国に悪政を敷き、島原の乱を引き起こす原因を作った。
乱の鎮定後は江戸幕府に領国経営失敗と反乱惹起を問責され、大名としては異例の斬首刑に処された。
生涯=
父・重政と共に島原城とその城下町の新築、参勤交代の費用、計画のみで頓挫したルソン遠征の準備など種々の口実を設け、また独自に検地を実施して実質4万石程度の石高を10万石と過大に見積もり、領民に10万石相当の過重な年貢・労役を課した。
さらには豪勢な島原城を改築(城を全面白色に塗色するなど)し、領内に多かったキリシタンへの弾圧も残忍を極めた。
寛永7年(1630年)に父・重政が急逝した後を受けて藩主となってからは、父をも凌ぐ過酷な収奪を行って領民を苦しめた。
寛永11年(1634年)は悪天候と干ばつから凶作となったが、勝家は容赦せず重税を取立てた。
米や農作物の徴収だけでなく、人頭税や住宅税などありとあらゆる税を新設して厳格に取り立てたことが多くの記録に残る(『鍋島勝茂公譜』、オランダ商館長ニコラス・クーケバッケルの日記など)。
また、『黒田長興一世之記』によれば、寛永14年(1637年)10月、口の津村の庄屋・与左衛門の妻は身重のまま人質にとられ、冷たい水牢に裸で入れられた。
村民は庄屋宅に集まり何とか年貢を納める方法を話し合ったが、もう出せるもの ……
松倉勝家が亡くなってから、386年と70日が経過しました。(141057日)