松倉重政(まつくらしげまさ)
肥前日野江藩主[日本]
(寛永7年11月16日没)
1630年 12月19日 死去
松倉 重政(まつくら しげまさ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将、大名。
大和五条藩主、肥前日野江藩初代藩主。
松倉重信の長男。
日野江に入封後は苛政と搾取を行い、子の勝家と共に島原の乱の主因を作った。
生涯=
はじめは筒井順慶に仕えていたが、順慶の没後、養子の定次が伊賀に転封されると、重政は大和に残って豊臣家の直臣となった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは単身参陣して徳川家康に認められ、大和の五条二見城主となった。
五条では諸役を免除して商業の振興を図るなど、城下町の整備を行った。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に際しては、大和郡山城の救援や、道明寺方面での後藤基次勢との戦いで功を上げた。
翌元和2年(1616年)には有馬直純が慶長19年(1614年)に転封した後天領となっていた肥前日野江4万3千石を与えられた。
元和4年(1618年)、一国一城の制にしたがって、従来あった原城と日野江城を廃して島原城の築城を開始する。
禄高4万3千石でありながら10万石の大名の城に匹敵する分不相応な規模の城を築いたため、領民から過酷な搾取を行うこととなった。
この際、検地を行い、領内の石高を実勢の倍近くに見積もり、領民の限界を超える税を取り立てた。
この島原城の普請の際に功のあった千々石村の和田四郎左衛門義長の訴えにより、海風による塩害を防ぐために千々石海岸に堤防を築き松を植えさせた。
この松は今日も防風林として ……
松倉重政が亡くなってから、393年と335日が経過しました。(143878日)