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安保清種(あぼきよかず)

海軍大将、男爵[日本]

1948年 6月8日 死去享年79歳

安保清種 - ウィキペディアより引用

安保 清種(あぼ きよかず、1870年11月8日(明治3年10月15日) - 1948年(昭和23年)6月8日)は、明治・大正・昭和期の日本の海軍軍人。
海軍大将正三位勲一等功四級男爵。
濱口内閣海軍大臣。
佐賀県出身。
東京都新宿区にある道路「安保坂」は、安保の邸があったことに由来する。
経歴= 海軍草創期の中堅幹部・沢野種鉄大佐の三男として生まれる。
前名は康三郎。
佐賀中学、攻玉社を経て、海軍兵学校(18期)に入学し、1891年に61名中11位で卒業。
同期生に加藤寛治がいる。
在学中は父が兵学校次長であった。
しかし在学中に父が病没する。
規定局長林清康少将(のち海軍中将)が長女との縁談を進め、林家の養子となる。
同時に養父から「清」、実父から「種」の字を頂き、林清種に改名。
1897年に男爵に叙せられた清康中将が安保姓に改姓したため、この時点で世に知られる安保清種の姓名となる。
1909年、養父の死去に伴い男爵を相続する。
日清戦争時は防護巡洋艦「厳島」分隊士として出征し、黄海海戦、威海衛攻撃に参加。
日露戦争開戦時には、装甲巡洋艦「八雲」砲術長の職にあり、旅順口攻撃や黄海海戦 (日露戦争)に参戦した。
1905年の2月13日には連合艦隊の旗艦である戦艦「三笠」の砲術長に着任。
同年5月27日に勃発した日本海海戦において、艦隊の射撃指揮に功績を挙げた。
その際、ロシアの戦艦の名を覚える必要があったが、水兵達が慣れないロシア語をなか ……

安保清種が亡くなってから、77年と103日が経過しました。(28227日)

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