安保清種(あぼきよかず)
海軍大将、男爵[日本]
1948年 6月8日 死去享年79歳
安保 清種(あぼ きよかず、1870年11月8日(明治3年10月15日) - 1948年(昭和23年)6月8日)は、明治・大正・昭和期の日本の海軍軍人。
海軍大将正三位勲一等功四級男爵。
濱口内閣海軍大臣。
佐賀県出身。
東京都新宿区にある道路「安保坂」は、安保の邸があったことに由来する。
経歴=
海軍草創期の中堅幹部・沢野種鉄大佐の三男として生まれる。
前名は康三郎。
佐賀中学、攻玉社を経て、海軍兵学校18期生。
同期生に加藤寛治がいる。
在学中は父が兵学校次長であった。
しかし在学中に父が病没する。
規定局長林清康少将(のち海軍中将)が長女との縁談を進め、林家の養子となる。
同時に養父から「清」、実父から「種」の字を頂き、林清種に改名。
1897年に男爵に叙せられた清康中将が安保姓に改姓したため、この時点で世に知られる安保清種の姓名となる。
1909年、養父の死去に伴い男爵を相続する。
日清戦争時は防護巡洋艦「厳島」分隊士として出征し、黄海海戦、威海衛攻撃に参加。
日露戦争時、日本海海戦において、連合艦隊の旗艦である戦艦「三笠」の砲術長を務め、艦隊の射撃指揮に功績を挙げた。
その際、ロシアの戦艦の名を覚える必要があったが、水兵達が慣れないロシア語をなかなか覚えられなかった為、似たような日本語を自身で考え、それで憶えさせたというエピソードがある(戦艦アリョールを「蟻寄る」、インペラートル・アレクサンドル3世を「呆 ……
安保清種が亡くなってから、76年と130日が経過しました。(27889日)