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高村豊周(たかむらとよちか)

鋳金家[日本]

1972年 6月2日 死去享年83歳

高村豊周 - ウィキペディアより引用

高村 豊周(たかむら とよちか、1890年〈明治23年〉7月1日 - 1972年〈昭和47年〉6月2日)は、日本の鋳金家。
金沢美術工芸大学名誉教授。
日本芸術院会員。
略歴= 高村光雲の三男、高村光太郎の弟として東京下谷区に生まれる。
津田信夫に入門、1915年(大正4年)に東京美術学校鋳造科本科を卒業する。
1919年(大正8年)、岡田三郎助、長原孝太郎、藤井達吉らと装飾美術家協会を設立。
1926年(大正15年)、東京美術学校助教授。
同年、工芸団体・无型(むけい)を組織し、1935年(昭和10年)、実在工藝美術会結成に参加する。
その間、1934年(昭和9年)には帝展審査員に就任。
その後も新文展、日展審査員を務める。
1933年(昭和8年)、東京美術学校教授、1949年(昭和24年)、金沢美術工芸専門学校(現・金沢美術工芸大学)教授、日展運営会参事、日本芸術院会員。
1958年(昭和33年)、日展理事、鋳金家協会会長。
1964年(昭和39年)年、正月に宮中歌会始の召人となる、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。
1967年(昭和42年)、勲三等旭日中綬章受章。
東京美術学校在学中に与謝野鉄幹・晶子夫妻に師事して短歌を学び、遺歌集も含め4冊の歌集がある。
また、光太郎、高村智恵子の顕彰にも努めた。
写真家の高村規(ただし)は息子で、光雲・光太郎らの作品鑑定も行っている。
1972年(昭和47年)6月2日、肺炎のため東京都文京区の自宅で死去。
6日、同区の吉祥寺で告別 ……

高村豊周が亡くなってから、52年と172日が経過しました。(19165日)

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