芸能人・経営者のおくやみ情報

高村智恵子(たかむらちえこ)

画家[日本]

(高村光太郎の妻)

1938年 10月5日 死去肺結核享年52歳

高村智恵子 - ウィキペディアより引用

高村 智恵子(たかむら ちえこ、1886年(明治19年)5月20日 - 1938年(昭和13年)10月5日、旧姓:長沼)は、日本の洋画家、紙絵作家。
夫は彫刻家・詩人の高村光太郎。
夫の光太郎が彼女の死後に出版した詩集『智恵子抄』でも知られる。
略歴= 1886年(明治19年)5月20日、福島県安達郡油井村字漆原(現・二本松市油井)の酒造業・斎藤今朝吉(後に長沼家に養子に入り、長沼今朝吉となる)とせんの二男六女の長女として生まれた。
戸籍名は「チヱ」。
長沼家は清酒「花霞」を醸造する酒造家で、使用人を多数抱えた資産家であった。
1901年(明治34年)に油井小学校高等科を卒業したのち福島高等女学校3年へ編入学した。
1903年(明治36年)、同校を総代として卒業して日本女子大学校へと進んだ。
寮生として同校に入学した智恵子は普通予科を経て家政学部へと進んだが、在学中に油絵に興味を持つようになり、自由選択科目の洋画の授業ばかりを受けていたという。
1907年(明治40年)に大学を卒業した後は、当時では珍しい女性洋画家の道を選び、反対する両親を説得して東京に留まり、太平洋画会研究所で絵画を学んだ。
1911年(明治44年)には、同年9月に創刊された雑誌『青鞜』の表紙絵を描くなど、若き女性芸術家として人々に次第に注目されるようになっていった。
また、青鞜社の田村俊子らと親睦を深めた。
智恵子と光太郎 智恵子は光太郎の評論「緑色の太陽」に共鳴していたものの ……

高村智恵子が亡くなってから、86年と47日が経過しました。(31459日)

「高村智恵子」と関連する故人

推定関連画像