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牧村利貞(まきむらとしさだ)

戦国武将[日本]

(通称・牧村兵部、文禄2年7月10日没、利休七哲のひとり)

1593年 8月6日 死去享年48歳

牧村利貞 - ウィキペディアより引用

牧村 利貞(まきむら としさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。
稲葉重通の子(娘婿とも)。
利休七哲の一人に数えられる茶人であり、キリシタン大名でもある。
伊勢国岩出(岩手)城主であったが、文禄の役で出陣した朝鮮において病没した。
通称は長兵衛。
兵部大輔に任じられたため「牧村兵部」の名でも知られる。
諱については政吉、政治(まさはる)などとも伝わり、秀光と署名した文書もある。
生涯= 出自= 『寛政重修諸家譜』や『稲葉家譜』によれば、稲葉重通(稲葉良通の庶長子)の長男として生まれ、外祖父である牧村政倫の跡を継いだ。
ただし、利貞は稲葉重通の実子ではなく娘婿との説もあり、その場合の出自についても、もともと牧村氏出身との説、斎藤氏出身との説がある。
『美濃国諸家系譜』はこの人物を「牧村政吉」として記載し、牧村政倫の弟で、稲葉重通の娘を娶ったとする。
妙心寺の塔頭・雑華院の史料である『雑華院略史』は、斎藤利賢と明智光秀妹の子で、稲葉重通の娘(報慈院)を娶ったと記す。
同史料によれば、斎藤利三は利貞の兄、雑華院の開祖である一宙東黙は利貞の弟である。
初期の活動= 父(別説に義父)の稲葉重通とともに、織田信長に従って活動した。
『信長公記』によれば、天正5年(1577年)には根来攻めに派遣され、天正6年(1578年)の荒木村重攻めに際して高槻城在番衆の一人になっている。
織田信 ……

牧村利貞が亡くなってから、432年と171日が経過しました。(157959日)

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