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須藤南翠(すどうなんすい)

作家、新聞記者[日本]

(本名・須藤光暉)

1920年 2月4日 死去享年64歳

須藤 南翠(すどう なんすい、安政4年11月3日(1857年12月18日) - 大正9年(1920年)2月4日)は、伊予国宇和島出身の小説家・新聞記者。
本名は須藤 光暉(すどう みつあき)。
妻は矢野龍渓の姪である小林シズ。
息子は建築家の眞金、孫に詩人の須藤伸一がいる。
経歴[編集] 宇和島藩御目付役御軍使須藤但馬の次男として生まれる。
幼名孟(たけし)。
但馬はしばしば江戸御留守詰を勤め、孟も多く江戸麻布の藩邸に置かれた。
明治になって宇和島に帰り、藩校明倫館に学ぶが、時勢に応じて教科が漢書から皇典、翻訳書、英書、国史と変転するのに、松山師範学校に転じる。
八幡浜小学校に勤めるが、ほどなく土屋郁之助の偽名で東京に奔出。
放浪生活を経て、1877年に弾直樹と新平民学校設立を企画するが失敗する。
翌1878年に『有喜世新聞』(後の開花新聞、改進新聞)が発刊されると探訪社員として入社、やがて編輯となり、つづきもの(新聞小説)を執筆。
当時の高橋お伝事件を当て込んだ、仮名垣魯文風の「夜嵐お絹」「新藁おみな」「茨木お滝」などの毒婦伝が人気を得て、読売新聞上の饗庭篁村や、岡本起泉とともに若手記者の三才子と言われた。
1883年に『有喜世新聞』が廃刊になって、『開花新聞』に『千代田刃傷』『黄金花籠』を連載して人気となり、中島座で片岡我当、中村時蔵らによって演じられたのも評判となった。
続いて『春色日本魂』、立憲改進党の立場による矢 ……

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須藤南翠が亡くなってから、104年と174日が経過しました。(38160日)