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水上瀧太郎(みなかみたきたろう)

作家[日本]

1940年 3月23日 死去脳溢血享年54歳

水上瀧太郎 - ウィキペディアより引用

水上 瀧太郎(みなかみ たきたろう、1887年12月6日 - 1940年3月23日)は、日本の小説家、評論家、劇作家、実業家。
本名阿部 章蔵。
「三田文学」発表の「山の手の子」で出発。
明治生命保険会社専務、大阪毎日新聞社取締役で長く実業と文学を両立した。
強い道義性と文明批評性に特色がある。
第2次「三田文学」復刊後は同誌の精神的主幹と呼ばれた。
生涯= 東京市麻布区飯倉町三丁目(現・港区麻布台二丁目)に、明治生命の創業者阿部泰蔵の四男として生まれる。
御田小学校「岬門」2010年現在、水上が通っていた当時のまま現存している。
小泉信三の同期生として共に御田小学校を経て慶應義塾普通部に入学。
この頃から、泉鏡花の小説や与謝野寛・晶子の短歌に傾倒する。
慶應義塾大学部理財科に進むが、文科の永井荷風や小山内薫の講義を熱心に聴く。
大学在学中の1911年に荷風主宰の『三田文学』に短編「山の手の子」を発表し、久保田万太郎とともに三田派の新進作家として注目される。
戯曲「嵐」を「水上瀧太郎」名義で発表。
筆名は鏡花作品の作中人物(「風流線」の水上規矩夫、「黒百合」の瀧太郎)に由来する。
1912年大学部理財科卒業後、父の命でハーヴァード大学に留学、短編集『処女作』を刊行。
1914年第一次世界大戦の中ロンドン、1915年パリに学び、同じく留学中だった澤木四方吉(慶應義塾大学教授、西洋美術史を初めて日本に紹介)や、小泉信三と親交を ……

水上瀧太郎が亡くなってから、84年と243日が経過しました。(30924日)

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