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木谷千種(きたにちぐさ)

日本画家[日本]

1947年 1月24日 死去享年53歳

木谷千種 - ウィキペディアより引用

木谷 千種(きたに ちぐさ、1895年(明治28年)2月17日 - 1947年(昭和22年)1月24日)は、大正時代から昭和時代の日本画家。
来歴[編集] 1895年(明治28年)、大阪府大阪市北区堂島の唐物雑貨商を営む吉岡政二郎の娘として生まれる。
本姓は吉岡、本名英子。
幼くして母を失った後、12歳の時に渡米し2年間シアトルで洋画を学んでいる。
1909年(明治42年)に帰国、帰国後の大阪府立清水谷高等女学校在学中より深田直城に師事して花鳥画を学んだ。
同年7月の北の大火(天満焼け)により罹災して堂島の自宅を焼失した。
そのため女学校卒業間際に東京に移住し、1913年(大正2年)から2年ほど日本画家の池田蕉園に師事している。
吉岡千種の名前で1912年(明治45年・大正元年)の第6回文展に出品した「花譜」で初入選を果たした。
1915年(大正4年)に再び関西に戻り池田室町に住む叔父の吉岡重三郎のもとに寄寓した。
この叔父は小林一三を助け、宝塚少女歌劇団の創立や阪急電鉄の発展などに尽力した人物で、千種はこういったモダンな環境のもとで、本格的な絵画活動を行っていたようであった。
帰阪してからの千種は野田九浦と北野恒富の指導を仰いで美人画などを学び、第1回大阪美術展覧会に「新居」を出品した。
また、1916年(大正5年)には島成園、松本華羊、岡本更園とともに「女四人の会」を結成して井原西鶴の『好色五人女』を題材とした展覧会を大阪で開催した。
1915年の第9回文展 ……

推定関連画像

木谷千種が亡くなってから、77年と185日が経過しました。(28309日)