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菊池海荘(きくちかいそう)

詩人[日本]

1881年 1月16日 死去享年83歳

菊池海荘 - ウィキペディアより引用

菊池 海荘(きくち かいそう)は幕末紀州の豪商、漢詩人、海防論者。
栖原垣内家出身。
江戸新和泉町で砂糖問屋河内屋孫左衛門店を経営しながら、大窪詩仏・梁川星巌に漢詩を学び、湯浅古碧吟社で活動した。
天保の大飢饉では公共事業を行って窮民を救済し、紀州藩地士に取り立てられ、農兵浦組を編成するなど、国事に関与した。
生涯= 菊池海荘肖像 岩瀬可隆写、本勝寺蔵 家業経営と文芸活動= 寛政11年(1799年)9月25日紀伊国有田郡栖原村に豪商垣内家新家垣内淡斎の次男として生まれた。
幼名は駒次郎。
文化8年(1811年)父に随い江戸に出て、持店の博施堂河内屋孫左衛門店に勤務した。
同店は江戸砂糖問屋仲間の筆頭に位置し、大坂堺筋から主に奄美大島産黒砂糖・本土産白砂糖を仕入れ、江戸の砂糖卸商・小売商・菓子商等に販売した。
血気盛んで剣術・槍術を好んだため、これを抑えるため父の命で大窪詩仏に漢詩を学んだ。
別に書道を学び、隷書を得意とした。
文政5年(1822年)7月3日父淡斎が死去すると、家業は番頭服部吉兵衛に任せ、文芸に興じた。
湯浅浦南に結成された古碧吟社に参加し、盟主垣内己山の死後これを継承した。
弘化2年(1845年)7月石田冷雲から観潮園を借り入れ、柳宗元「漁翁」に因み欵乃詩窓と号した。
文政8年(1825年)3月13日兄垣内玄蔵と藩に呼び出され、度々上納していた冥加金の見返りに苗字帯刀を許された。
同年12月にも会計方から献金を ……

菊池海荘が亡くなってから、143年と308日が経過しました。(52539日)