池田孤邨(いけだこそん)
絵師[日本]
(慶応2年2月13日没)
1866年 3月29日 死去享年66歳
池田 孤邨(村)(いけだ こそん、 享和3年(1803年) - 慶応4年2月13日(1868年3月6日))は、江戸時代後期の江戸琳派の絵師。
酒井抱一の弟子で、兄弟子の鈴木其一と並ぶ高弟である。
略伝=
イェール大学美術館蔵『三十六歌仙図屏風』
メトロポリタン美術館蔵『檜図屏風』
越後国水原近辺(現在の阿賀野市)出身。
名は三信(みつのぶ)、三辰、字は周二、通称・周次郎。
号は自然庵、蓮菴、冬樹街士(天保後期)、煉心窟(安政から文久頃)、画戦軒、天狗堂、旧(舊)松軒、久松軒など。
池田藤蔵の子として生まれる。
10代後半には江戸へ出て、酒井抱一に師事したと見られる。
水原は天領で、越後有数の米処として、干拓や新田開発が積極的に行われた。
その結果、廻船業などで富を成す素封家も多く、江戸や京阪の文人墨客が水原を訪れ、逗留することも珍しくなかった。
父藤蔵は水原でこうした素封家と交流があり、弧邨が若くに江戸に出るのも、水原に来訪した文化人が関与したとする説がある。
また、抱一の弟子で、後に孤邨の弟子となる野沢堤雨の父・九皐庵九甲の紹介とする説もある。
孤邨は後々まで水原との関係を保ち続ける。
嘉永6年(1853年)2月に父が亡くなると、同年4月水原の古刹西福寺に父の墓碑を建立している(大橋訥庵銘文)。
文政年間前期頃に抱一に入門、抱一の号の一つ「鶯邨」の1字から孤邨を名乗ったと推測される。
抱一の死後30代の半ばから一時深 ……
池田孤邨が亡くなってから、158年と236日が経過しました。(57946日)