鈴木其一(すずききいつ)
絵師[日本]
(安政5年9月10日没)
1858年 10月16日 死去享年63歳
鈴木 其一(すずき きいつ、男性、寛政7年(1795年) - 安政5年9月10日(1858年10月16日))は、江戸時代後期の絵師。
江戸琳派の祖・酒井抱一の弟子で、その最も著名な事実上の後継者である。
もと氏は西村、一説には山本。
諱は元長、字は子淵。
其一は号で、のちに通称にも使用した。
別号に噲々、菁々、必庵、鋤雲、祝琳斎、為三堂、鶯巣など。
近代に通じる都会的洗練化と理知的な装飾性が際立ち、近代日本画の先駆的な絵師とみなされている。
『夏秋渓流図』重要文化財 根津美術館蔵
『朝顔図屏風』左隻
伝記=
生い立ち=
其一の生い立ちは不確かなことが多い。
中野其明『尾形流略印譜』や『東洋美術大鑑』など近代以降、弟子の談話などの資料を根拠とした説では中橋(現在のブリヂストン美術館周辺)で、近江出身の紫染めを創始したと言われる紺屋の息子として寛政8年4月に誕生し、兄弟子鈴木蠣潭(れいたん、通称・藤之進、のち藤兵衛)の病死後、蠣潭の姉りよを妻として鈴木家の婿養子になったとされる。
一方、『姫陽秘鑑』に収録される文化14年(1817年)7月付の養父蠣潭の名跡養子願には幕臣水野勝之助の家来、飯田藤右衛門厄介の甥で蠣潭母方の遠縁、西村為三郎として武士階級であるように登場し、年齢も23歳、結婚相手も妹になっている。
このうち、年齢は其一自身の作品、「牡丹図」の落款と「菊慈童図」の箱書きから文化14年時点で23歳、寛政7年の誕生で ……
鈴木其一が亡くなってから、166年と35日が経過しました。(60667日)