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阿部正精(あべまさきよ)

備後福山藩主、幕府老中[日本]

(文政9年6月20日没)

1826年 7月24日 死去享年53歳

阿部正精 - ウィキペディアより引用

阿部 正精(あべ まさきよ)は、江戸時代後期の大名。
備後国福山藩の第5代藩主。
江戸幕府の幕閣で老中を務めた。
阿部家宗家9代。
官位は従四位下・侍従。
生涯= 第4代藩主・阿部正倫の3男として江戸で生まれる。
享和3年(1803年)に正倫の隠居により30歳で家督を相続する。
襲封から半年も経たない文化元年(1804年)に奏者番に就任し、同年寺社奉行を兼任する。
その後、病を患い寺社奉行を辞任するが、文化7年(1810年)に再任される。
文化14年(1817年)、寛政の改革期から通算26年間にわたり幕閣内に残留する老中首座・松平信明が危篤に陥ったため、将軍徳川家斉は密かに幕閣改造を企てる。
まず側近の水野忠成を側用人兼務のまま老中格に上げ、続いて正精を寺社奉行から大坂城代、京都所司代を飛び越えさせて老中に抜擢した。
これは、家斉が寛政の改革の厳しさを嫌っての人事であり、正精が保守派にとって都合の良い存在であったことが窺える。
実際、正精の老中在任中に空前の賄賂政治が横行することになった。
正精の老中在職中の功績として、江戸の範囲を確定したことが挙げられる。
それには次のようなエピソードがある。
江戸御府内という言葉があるが、言葉だけが独り歩きして、区画が具体的にどこからどこまで指すのかが不明であった。
ある大名から書面で伺い書が出され、正精は文政5年(1822年)12月、朱線で囲った地図とともに次のような通達を出し ……

阿部正精が亡くなってから、198年と119日が経過しました。(72439日)