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矢野橋村(やのきょうそん)

日本画家[日本]

1965年 4月17日 死去享年74歳

矢野橋村 - ウィキペディアより引用

矢野 橋村(やの きょうそん、1890年(明治23年)9月8日 - 1965年(昭和40年)4月17日)は、日本画家[1]。
愛媛県越智郡(現今治市)出身[1][2]。
本名一智、別号「知道人」[1]。
晩年、日本南画院の設立に関わった[1]。
略歴= 1890年(明治23年)9月8日[1]、愛媛県越智郡に生まれる[2]。
大阪陸軍造兵廠にて勤務中に左手首切断の負傷を負う[2]。
その後南画家を志し永松春洋へ師事し[1]、右手一本で創作活動を行う[2]。
1914年(大正3年)、第8回文展[注 1]にて「湖山清暁」が褒章を受賞[1]。
1919年(大正8年)、直木三十五、福岡青嵐らと「大阪文化の抜本的改革を提唱する美術・文学・哲学などを文化総体として捉えた研究団体[2]」として主潮社を結成、毎年東京と大阪で個展を開催する[1]。
1921年(大正10年)には三井飯山、河野秋邨、小室翠雲、池田桂仙、水田竹圃など[5]と共に日本南画院を設立[1]。
1923年(大正12年)、関東大震災発生のため主潮社展覧会が断絶[1]。
翌1924年(大正13年)、当時の大阪に美術を学ぶ学校が存在しなかったことから[2]、33歳にして大阪市天王寺区に私立大阪美術学校を設立[注 2]、校長に就任し自ら教鞭を取り[1][2]、全国から南画家が結集し発表と研究の場を得た[5]。
大阪美術学校は昭和四年に牧野村大字渚字御殿山(現・枚方市)に移転。
橋村は校舎に併設した美術館「大来館」を住まいとした[2]。
1927年(昭和2年)第8回帝国美術展覧会(帝展)特選、翌1928年(昭和3年) ……

矢野橋村が亡くなってから、60年と74日が経過しました。(21989日)