小室翠雲(こむろすいうん)
日本画家・南画[日本]
1945年 3月30日 死去享年72歳
小室 翠雲(こむろ すいうん、1874年〈明治7年〉8月31日 - 1945年〈昭和20年〉3月30日)は、明治時代から昭和前期に活躍した日本画家、南画家。
本名は貞次郎(ていじろう)。
号には翠雲のほか、翠湖・翠雲衜人・長興山人・佳麗庵など。
文展・帝展審査員、帝国美術院会員、帝室技芸員などをつとめた。
生涯=
1874年(明治7年)、栃木県邑楽郡館林町(現・群馬県館林市)で、呉服商を営む父・牧三郎、母・ふきの長男として生まれる。
父・牧三郎は、谿邨の号で文人画もたしなんでいた。
翠雲は館林小学校に入学。
小学校時代に善導寺の満成和尚に書を、画家の岡戸仙渓や岸浪柳渓から絵を習った。
1887年(明治20年)館林小学校中等科を退学し、上京して印刷工となるが1年ほどで帰郷。
帰郷後沼田の青木翠雲に師事し、その号から1字とって翠湖を号した。
1889年(明治22年)足利の画家・田崎草雲に入門。
師匠のもとへ住み込みで画業の修業に励み、草雲からその父と同じ翠雲の号を授かった。
1898年(明治31年)師・草雲が死去。
1899年(明治32年)には荒井閑窓の依頼によりその菩提寺である常光寺に144枚の格天井画(館林市指定文化財)を描いている。
1899年(明治33年)上京し、日本美術協会に参加。
1900年(明治34年)には足尾鉱毒事件を訴える上京農民に加わるが東京で拘束を受ける(川俣事件)。
日本美術協会展で入選を重ねる。
1907年(明治40年)文展開設にあたっては文 ……
小室翠雲が亡くなってから、80年と258日が経過しました。(29478日)



