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田崎草雲(たざきそううん)

日本画家・南画[日本]

1898年 9月1日 死去享年84歳

田崎草雲 - ウィキペディアより引用

田崎 草雲(たざき そううん、1815年11月15日(文化12年10月15日) - 1898年(明治31年)9月1日)は、日本の南画画家。
名は芸(うん)。
字は草雲。
弟子に小室翠雲、嵩岳堂がいる。
司馬遼太郎の短編小説「喧嘩草雲」や、中里介山の長編小説「大菩薩峠」に登場する足利出身の放浪の絵師、田山白雲のモデルになっている。
略歴= 1815年 江戸小川町(現在の千代田区)足利藩江戸藩邸に足軽二人扶持の祐筆、田崎恒蔵の長子として生まれる。
幼少より絵に長じて縁戚の金井烏洲、次いで谷文晁門下となる。
1835年 家督を継母の連れ子に譲るため、足利藩を脱藩。
放浪の後、江戸の加藤梅翁の門下となり号を梅渓とする。
1840年 谷文晁が没す。
1843年 独立して浅草山谷堀の裏店に家を借りるが絵はまったく売れず。
明の盛茂燁の山水画に傾倒し、研究を重ねる。
この前後、松浦武四郎、小野胡山らの紹介により玉池吟社の梁川星巌に謁し、感化されるところが多く画論の研究を進める。
また尊王思想についても共感するところがあった。
1850年 この頃、禅学に傾倒し、草雲の号を使う。
周囲の評価も高まる。
1855年 妻の菊子が狂死。
翌年、草雲は江戸を去り足利へ帰郷。
藩へ絵師として復帰する。
1858年 尊王志士と交わり幕府の嫌疑を受ける。
安政の大獄の難を遊歴をすることで避ける。
  1868年 藩主以下重臣に説き、藩論を尊王に統一させる。
藩内の百姓を徴兵した「誠 ……

田崎草雲が亡くなってから、126年と80日が経過しました。(46102日)

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