椎尾弁匡(しいおべんきょう)
僧侶・浄土宗、仏教学者[日本]
1971年 4月7日 死去享年96歳

椎尾 弁匡(しいお べんきょう、1876年7月6日 - 1971年4月7日)は、日本の仏教学者[3]・浄土宗僧侶・政治家。
大正大学学長・大本山増上寺法主などを歴任。
三康文化研究所の初代所長[注釈 1]。
経歴=
1878年、名古屋円福寺住職椎尾順位の五男として生まれ、13歳で得度。
東京帝国大学文学部を恩賜の銀時計組で卒業後[7]、宗教大学[3](後の大正大学)・日本大学[8]・早稲田大学などで仏教学の講義を担当。
1913年に東海中学校校長となり、1922年に仏教運動として共生(ともいき[7][9])運動を始める(英語の呼称は1923年に考案した。
英: the Philosophy of Symbiosis[10])。
1915年(大正4年)、東京帝国大学に学位論文を提出して文学博士号を取得[2]
1926年に大正大学教授に就任[11]、同学学長を3度経験する(第6代・第9代・第14代)。
僧職の傍ら、1928年の総選挙に愛知1区から立候補し当選すると、衆議院議員を3期にわたって務めた。
戦前の著作では「日本の不滅の生命を點じて支那に不滅の支那を建設すると云ふのが、今次支那事変の真義である。
その大生命の実現のために、随所に兵を動かし、幾百萬の生命をさへ殺して行くことが肯定されるのである」「人を軽んじて、ただ金を重んずるといふ猶太民族思想といふものを人類から取除いてしまふということは日本に課せられて居るところの第三の使命」など、軍国主義・排外主義的な論を強く主張した。
住職として建中寺(1926年)、清浄華院(1940年)に赴く[1 ……
椎尾弁匡が亡くなってから、54年と85日が経過しました。(19809日)