北条基時(ほうじょうもととき)
武将、鎌倉幕府第13代執権[日本]
(元弘3年5月22日没)
(ユリウス暦) 1333年 7月4日 死去自害享年48歳
北条 基時(ほうじょう もととき)は、鎌倉時代末期の北条氏一門の武将。
鎌倉幕府の第13代執権(在職:正和4年7月11日(1315年8月11日) - 正和5年7月9日(1316年7月28日))である。
普恩寺 基時(ふおんじ もととき)とも呼ばれる。
生涯=
執権就任以前=
父は普恩寺流の北条時兼。
子に最後の六波羅探題北方となった北条仲時がいる。
正安3年(1301年)6月7日に六波羅探題北方として上洛する。
乾元2年(1303年)10月20日、六波羅探題職を辞職し、鎌倉に戻り評定衆に列する(評定衆にはなっていないとする説もある)。
嘉元3年(1305年)8月22日、引付衆に列する。
延慶3年(1310年)、信濃守護に任命された。
第13代執権就任=
正和4年(1315年)7月11日に先代の執権であった北条煕時が病で執権職を辞任したため、後任の執権として就任した。
7日後の7月19日に正五位下相模守に転ずるが、幕政の実権は内管領の長崎高資に握られていた。
正和5年(1316年)になると得宗家の北条高時を執権に就けるための準備が行なわれ、この年の7月9日に得宗の北条高時に執権職を譲り、11月20日に出家する。
以後は一線から離れたようで中央政界に活動の様子は無い。
嘉暦4年(1329年)信濃国守護として更級郡船山郷を領していた。
元弘の乱と最期=
元弘元年(1331年)9月、後醍醐天皇の倒幕計画から元弘の乱が起こると、北条高時が畿内の反幕勢力討伐に派遣した討手に加わっている。
元弘3年/正慶2年(1333 ……