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鈴木重朝(すずきしげとも)

戦国武将[日本]

(通称・雑賀孫一)

1623年 死去

鈴木 重朝(すずき しげとも)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。
水戸藩重臣・雑賀氏の祖。
生涯= 重朝は雑賀党鈴木氏の生まれとみられるが、『水府系纂』記載の家譜には「其先未詳」とあり、確かなことは分からない[8]。
石山合戦で本願寺方として活躍した鈴木孫一重秀と同一人物とする説や[9]、重秀の子またはその一族とする説がある[10]。
鈴木眞哉は重秀の弟や甥といった重秀に近い人物との見方を示し[6]、武内義信は重秀の子の可能性が高いとしている[11][注釈 4]。
鈴木重秀は本能寺の変の後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)に属したとみられるが[13]、重朝もまた秀吉に仕えている[14]。
文禄元年(1592年)4月以降[15]、朝鮮出兵に伴って、重朝は肥前名護屋城に在陣している[16][注釈 5]。
文禄2年(1593年)10月には、秀吉の能の稽古に際し弓鉄砲衆が警固しているが、その中に重朝とみられる「鈴木」の名がある(『駒井日記』)。
文禄4年(1595年)1月に、秀吉が草津への湯治に出向いた際には、美濃土岐宿の警備を行っていた。
秀吉没後は、その子・秀頼に直仕する鉄砲頭となっている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍に属して伏見城を攻め、城将・鳥居元忠を討ち取った(伏見城の戦い)。
戦後、重朝は浪人となる。
『水府系纂』によると、その後重朝は伊達政宗のもとに寄食し、政宗の仲介で鳥居元忠の主である徳川家康から許されたという[23]。
慶長11 ……

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