光岡龍三郎(みつおかりゅうざぶろう)
俳優[日本]
1961年 8月4日 死去胃がん享年61歳
光岡 龍三郎(みつおか りゅうざぶろう、1901年3月15日 - 1961年8月4日)は、日本の俳優である。
新字体光岡 竜三郎、本名は中澤 喜一(なかざわ きいち)である。
来歴=
1901年(明治34年)3月15日、北海道亀田郡大野村(現在の北斗市大野地区)に「中澤喜一」として生まれる。
11歳上の兄に俳優の葛木香一がいる。
当初舞台劇の俳優であったが、1924年(大正13年)、東亜マキノ等持院撮影所に入社し、映画俳優に転向する。
翌1925年(大正14年)、阪東妻三郎主演、二川文太郎監督の『江戸怪賊伝 影法師』前篇・後篇等に出演する。
二川監督の『墓石が鼾をする頃』に出演した後、牧野省三らは東亜キネマと分離するが、光岡は東亜キネマに残る。
1926年(大正15年)、高木新平主演、仁科熊彦監督の『帰って来た英雄』前篇・後篇に出演、中国人役を演じて注目される。
同役で「和製ワーナー・オーランド」との賞賛を受ける。
同年、村越章二郎監督の『鳴門秘帖』では主役に抜擢された。
以降、東亜キネマの主力の剣戟俳優となった。
1928年(昭和3年)1月27日、若木染と結婚、染との間にその後6男6女をもうける。
そのうち長男中澤光喜は、長じて録音技師となった。
1929年(昭和4年)、日活太秦撮影所に移籍した。
1936年(昭和11年)からは、牧野省三の長男・マキノ正博(のちのマキノ雅弘)のマキノトーキー製作所に所属した。
同社の崩壊後は、新興キネマに移籍、1942年(昭和17年)、 ……
光岡龍三郎が亡くなってから、63年と109日が経過しました。(23120日)