北条氏邦(ほうじょううじくに)
戦国武将[日本]
(慶長2年8月8日没)
1597年 9月19日 死去享年50歳
北条 氏邦(ほうじょう うじくに) / 藤田 氏邦(ふじた うじくに)は、戦国時代の武将。
北条氏康の五男。
後北条氏が豊臣秀吉による小田原征伐で滅亡した後は前田利家の家臣となった。
生涯=
従来の通説では氏康の四男で、正室・瑞渓院を母とするとされていたが、元亀2年(1571年)における北条家中での序列が、それまで弟とみられてきた氏規どころか氏康の養子(実際は甥)である氏忠よりも下に置かれていたことが判明し、五男とみられていた氏規よりも年下でなおかつ妾の子ではないかと考えられるようになった。
その後、天正10年(1582年)の時点では氏忠よりも上位に位置づけられ、天正14年(1586年)頃には氏規を抜いて三男氏照に次ぐ地位に位置付けられていた。
歴史学者黒田基樹の言に拠れば、氏邦が嫡出で年長であった氏規よりも高い政治的地位に位置付けられることは通常ではありえない事態であり、この判断は氏康次男で「御隠居様」としてなお北条家最高権力者の地位にあった氏政の判断とされている。
北条家の関東支配において、氏邦の担う役割の重要性を十分に認識し、氏邦の功績に鑑みて瑞渓院と養子縁組が行われ、氏照の次点とされたとする。
永禄元年(1558年)、武蔵国北部の有力国衆の藤田氏の養子になったとされる[注釈 6]。
永禄11年(1568年)、甲斐武田家との抗争が始まると新たな本拠として鉢形城を構築した。
領国は鉢形領と称されるようになった。
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北条氏邦が亡くなってから、427年と21日が経過しました。(155983日)