村上一郎(むらかみいちろう)
文芸評論家、歌人[日本]
1975年 3月29日 死去心筋梗塞享年83歳
村上 一郎(むらかみ いちろう、1920年(大正9年)9月24日 - 1975年(昭和50年)3月29日)は、日本の文芸評論家、歌人、小説家。
日本浪曼派に共感した。
略歴=
東京で生まれ、父はホーリネス教会派のクリスチャンだった。
栃木県宇都宮市で育つ。
旧制宇都宮中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)を経て、東京商科大学(現・一橋大学)予科に進学。
高島善哉ゼミ出身。
1943年に大学を卒業後、短期現役海軍主計科士官(10期)を志願し、1943年9月、海軍経理学校に入校。
小島直記らは同期生にあたる。
1944年3月に卒業して海軍主計中尉に任官。
1945年3月、海軍主計大尉に昇進し終戦を迎えた。
戦後は三菱化成(現三菱ケミカルホールディングス)に入社したがやがて退社。
また久保栄に師事する。
その後、高島善哉の紹介で日本評論社編集部に入るが、『日本評論』の連載が連合国軍最高司令官総司令部のプレスコードに反し退社した。
以後文筆に専念する。
中野重治の一文に感激し日本共産党に入党したがのち脱党した。
1956年、桶谷秀昭らと『典型』を刊行する。
のち、1964年から個人雑誌『無名鬼』を刊行する。
『無名鬼』には山中智恵子が多く寄稿した。
また1961年から、吉本隆明、谷川雁らとともに雑誌『試行』の編集などをしている。
のちに『試行』は吉本の単独編集となる。
『北一輝論』は三島由紀夫に高く評価された。
二・二六事件を肯定する面では三島と ……
村上一郎が亡くなってから、50年と205日が経過しました。(18468日)