大給恒(おぎゅうゆずる)
信濃田野口藩主、伯爵[日本]
(旧名・松平乗謨、日本赤十字社の創設者の一人)
1910年 1月6日 死去享年72歳
大給 恒(おぎゅう ゆずる)は、江戸時代後期の大名。
旧名は松平 乗謨(まつだいら のりかた)。
三河国奥殿藩8代藩主、のちに信濃国田野口藩(竜岡藩)主。
真次流大給松平家11代。
江戸幕府の老中格、老中、若年寄。
明治維新後は伯爵となる。
日本赤十字社の創設者の一人。
経歴=
天保10年11月13日(1839年12月18日)、奥殿藩7代藩主・松平乗利の長男として誕生した。
幼少時から聡明で知られ、西洋事情にも通じていたとされる。
嘉永5年3月8日(1852年4月26日)、父の隠居により家督を継いだ。
6月(7月)には竹橋御門番に任じられた。
嘉永6年(1853年)のペリー来航後、軍備の増強・革新の必要性を悟り、農民兵を徴募して歩人隊を編成した。
11月(12月)に従五位下・兵部少輔に叙位・任官する。
万延元年(1860年)には日光祭礼奉行を務めた。
文久3年1月(1863年2月)に大番頭に任じられ、8月(9月)に若年寄に任じられた。
9月11日(10月23日)、藩庁を手狭な奥殿から、飛び地ではあったが領地の多くが存在する信濃佐久郡の田野口(現在の長野県佐久市田口)に移転し、新たに星形要塞である龍岡城を建設した。
その後は幕政に参与したが、元治元年6月(1864年7月)に横浜鎖港問題などで政事総裁職の松平直克と対立して若年寄職を罷免された。
慶応元年4月(1865年5月)、三河で信濃移転に対する反対運動が起こる。
5月(6月)には陸軍奉行として幕政への復帰を果たした。
大給恒が亡くなってから、114年と319日が経過しました。(41958日)