栗山善助(くりやまぜんすけ)
戦国武将[日本]
(寛永8年8月14日没)
1631年 9月10日 死去享年82歳

栗山 利安(くりやま としやす)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。
黒田氏の筆頭家老で、黒田二十四騎、黒田八虎の1人である。
黒田孝高の股肱の家臣として厚い信任を受ける。
家臣の中では序列第1位であって一老と称された。
子に黒田騒動を起こした事で有名な利章がいる。
通称は善助(ぜんすけ)。
生涯=
天文19年(1550年)、播磨国姫路栗山(現在の姫路市栗山町付近)にて生まれる。
永禄8年(1565年)夏から黒田孝高に側近として仕えた。
永禄9年(1566年)に初陣。
永禄12年(1569年)の青山・土器山の戦いで、首級を2つ挙げ、83石相当の家禄を与えられる。
天正6年(1578年)に孝高は織田信長に反逆した荒木村重を説得するために有岡城に向かってそのまま捕らえられたが、利安は翌天正7年(1579年)にこれを救出している(有岡城の戦い)。
天正8年(1580年)、孝高が播磨国揖東郡で1万石を与えられると、利安も200石に加増された。
天正16年(1588年)孝高が豊臣政権下で豊前馬ヶ岳城の領主になると、一気に5,800石を加増されて6,000石を与えられ、平田城代となった。
文禄2年(1593年)に主君・孝高が隠居すると、その子の黒田長政に仕えて朝鮮出兵にも参加し、晋州城の戦いで功績を挙げた。
慶長3年(1598年)に帰国後、井上之房と共に宇佐神宮の造営に当たった。
慶長5年(1600年)、会津征伐に従軍。
その後の関ヶ原の戦いでは黒田如水(孝高)と共に豊後国に ……
栗山善助が亡くなってから、393年と293日が経過しました。(143836日)