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明日待子 氏(あしたまつこ)

女優、日本舞踊家[日本]

(正統五條流宗家家元・五條珠淑、本名・須貝とし子)

2019年 7月14日 死去老衰享年100歳

明日待子 - ウィキペディアより引用

明日 待子(あした まつこ、1920年3月1日 - 2019年7月14日)は、日本の女優、日本舞踊家。
昭和初期〜戦後にかけてムーランルージュ新宿座の看板スターの一人で、元祖・ライブアイドルの一人、また同年齢の諏訪根自子・山口淑子(李香蘭)・原節子と共に日本のアイドル黎明期をささえたアイドルの一人とされている。
岩手県釜石市出身。
本名は須貝とし子(すがい としこ)。
晩年を日本舞踊家として過ごし、正統五條流宗家家元・五條 珠淑(ごじょう たまとし)を名乗っていた。
略歴= 1920年(大正9年)3月、岩手県釜石市で警察署長を務める父・小野寺円之助と母・とらえの娘、小野寺とし子として生まれる。
尺八を嗜む父と義太夫を嗜む母の影響で5歳から三味線と日本舞踊を習う。
9歳で父を亡くした後は母が税関通りで東洋軒という店を始め生活を支えた。
13歳のとき釜石市において地方巡業中だったムーランルージュの俳優・有馬是馬にスカウトされ、即入団が決定したという。
上京にあたり、地元の釜石製鉄所の庶務課長、三鬼隆が壮行会を開いてくれた。
三鬼隆はのちに日本製鐵の社長になり、芸人・出川哲朗の大伯父に当たる。
上京後はムーランルージュ主催者の佐々木千里夫妻の養子となり麹町高女に入学したが、芸事が楽しく学校から足が遠のき、勉強は楽屋でムーランルージュの先輩に習った。
1933年(昭和8年)11月に初舞台。
入団から5年ほどは男の子の役ばかりだった ……

明日待子さんが亡くなってから、5年と131日が経ちました。(1957日)

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