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原田泰夫 氏(はらだやすお)

将棋棋士[日本]

(元日本将棋連盟会長)

2004年 7月11日 死去肺炎享年82歳

原田泰夫 - ウィキペディアより引用

原田 泰夫(はらだ やすお、1923年3月1日 - 2004年7月11日)は、将棋棋士。
棋士番号35。
新潟県西蒲原郡(現在の燕市)出身。
分水町名誉町民。
加藤治郎名誉九段門下。
棋歴= 10歳のころ、13世名人(関根金次郎)の立派な指導対局姿に心を打たれ、棋士を志す。
原田の父は棋士になることに反対していたが、結局は高等小学校を卒業した原田とともに上京して棋士になる手助けをしている。
はじめに縁のあった溝呂木光治(当時七段)を訪ねたが、溝呂木は当時三段で足踏みしていた弟子の間宮純一の名前を出して「自分は弟子運が悪い」「私のところじゃ四段になれない」と入門を断り、加藤治郎(当時五段)を紹介した。
このため加藤に弟子入りすることになった。
1944年1月に四段に昇段するが、同年4月に陸軍新発田連隊に入隊。
中国にわたり、現地で敗戦をむかえて抑留され、1946年6月に帰国して、同年の第1期順位戦に参戦する。
昭和中期を代表する強豪棋士だったことは意外と知られていない。
名人以外の全プロが参加する「最強者戦」で見事最強者となったこともあり、大山康晴、升田幸三に次ぐ実力を有していた。
なお、升田幸三は現役最後の新聞棋戦棋聖戦で敗北したが、相手は原田泰夫であった。
この将棋は原田の名局とされている。
1965年の順位戦でB級2組に陥落したが、居飛車党から振り飛車党に棋風を変更し、1968年にB級1組に復帰する。
1971年(昭和46年)には、14期 ……

原田泰夫さんが亡くなってから、20年と133日が経ちました。(7438日)

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