山崎吉家(やまざきよしいえ)
戦国武将[日本]
(天正元年8月14日没)
(ユリウス暦) 1573年 9月10日 死去戦死
山崎 吉家(やまざき よしいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
朝倉氏の家臣。
また、歌人としても知られている。
生涯=
山崎長吉の子として誕生。
享禄4年(1531年)8月の享禄の錯乱に伴う朝倉軍の加賀国出兵の際、朝倉宗滴に従って今湊に着陣した「山崎新左衛門尉」が初見とされ、弘治元年(1555年)の加賀一向一揆攻めで、大将である宗滴が病に倒れると、代わりに大将に指名された朝倉景隆と共に出陣している。
宗滴没後はそれまで宗滴が担当してきた越後国の上杉氏との交渉役を引き継ぎ、後に織田信長との戦いが始まると、美濃国安養寺(郡上市)や遠藤氏を通じて武田信玄とも交渉しており、朝倉氏の外交の分野で特に重要な役割を果たしている。
永禄10年(1567年)3月の堀江景忠謀叛の際には、魚住景固と共に討伐軍大将として派遣された。
翌永禄11年(1568年)5月の足利義昭の朝倉館訪問時には、年寄衆として挨拶をしている。
元亀元年(1570年)4月の金ヶ崎の戦いでは、朝倉義景本隊の第1陣として一乗谷を進発し、織田軍撤退後の5月11日に総大将朝倉景鏡の下、近江国に出陣、美濃国境まで進出し赤坂・垂井などを放火して姉川の戦い直前の6月15日に帰陣した。
同年8月、摂津国中嶋に進出した三好三人衆を討つため信長が岐阜を出立すると、浅井長政の要請を受けて援軍として小谷城に入り、この時、現在、山崎丸と呼ばれる砦を築いたという。
そのまま9月に入り ……