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陶晴賢(すえはるかた)

戦国武将[日本]

(天文24年10月1日没)

(ユリウス暦) 1555年 10月16日 死去自害享年35歳

陶 晴賢(すえ はるかた) / 陶 隆房(すえ たかふさ)は、戦国時代の武将。
大内氏の家臣。
晴賢と名乗ったのは、天文20年(1551年)に主君・大内義隆を討ち、大友晴英(後の大内義長)を当主に据えてから厳島の戦い前に出家するまでの数年間だけであり、それまでは初名の隆房を名乗っていた(以下、本項ではその当時の名乗りに合わせて記述する)。
生涯= 出自= 大永元年(1521年)11月14日卯の刻に出生。
陶隆房(晴賢)は、長らく陶興房の次男として生まれたとされてきた。
だが吉田兼右の日記である『兼右卿記』のうち、天文11年(1542年)に兼右が周防国に下向した際に記した『防州下向記』の記載から、隆房が石見国守護代を務める問田隆盛の同母弟であることと生年月日が明らかになった。
隆房が問田興盛の同母弟であることから実父は問田興之、実母は陶弘護の娘で陶興房の異母姉妹である可能性が指摘されている。
また、陶興房には実子として陶興昌がいたが、享禄2年(1529年)4月に死去していることから、実子である興昌の死により、興房の外甥にあたる隆房が興房の養子として迎えられたと考えられている。
家督相続= 隆房が養子となった陶氏は周防国の戦国大名・大内氏の庶家・右田氏の分家であり、周防国守護代を務める大内氏の重臣の家柄であった。
少年時は美男として知られ、大内義隆の寵童として重用された。
また、陶氏には代々の当主が本家・主君にあたる大内氏 ……

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