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山地元治(やまじもとはる)

土佐藩士陸軍中将、子爵[日本]

1897年 10月3日 死去享年57歳

山地元治 - ウィキペディアより引用

山地 元治(やまじ もとはる、やまち もとはる天保12年7月25日(1841年9月10日) - 明治30年(1897年)10月3日)は、明治期の日本の陸軍軍人。
最終階級は陸軍中将・従二位・勲一等・功三級・子爵。
幼名・忠七。
来歴= 土佐藩士(馬廻役・150石)山地元恒の長男として、高知城下小高坂越前町に生まれる。
藩主の小姓役、足軽隊長を経て、慶応3年(1867年)から歩兵小隊司令をつとめる。
鳥羽・伏見の戦いでは独断で新政府に与して幕府側を攻撃し、戊辰戦争では迅衝隊七番隊長、胡蝶隊長として東北各地を転戦した。
明治元年(1868年)には大隊長となり、翌年、戦功によって賞典禄150石を授けられた。
明治4年(1871年)、御親兵として上京して陸軍中佐に昇任した。
征韓論争では、板垣や後藤象二郎ら土佐藩出身とともに下野する。
帰郷した後は、板垣等とともに自由民権運動に挺身しようと盟約を結んだものの、今後の方針を巡って板垣と対立(※詳細は板垣清女項に記載)をした結果、陸軍に復帰した。
近衛6番大隊長等を経て、明治8年(1875年)、歩兵第4連隊長に就任。
明治10年(1877年)3月末、高島信茂少佐とともに別働第3旅団(4月5日別働第4旅団に改称、警視隊とは別部隊、司令代理兼参謀長:黒川通軌大佐)の参謀に任ぜられ、4月3日、部隊とともに玄海丸で神戸を発し、同日長崎に到着、以降10月まで西南戦争に出征し、戦傷を受けた。
のち、歩兵第3連隊長兼東京鎮台高崎営所司令官や ……

山地元治が亡くなってから、127年と48日が経過しました。(46435日)

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