小川千甕(おがわせんよう)
日本画家[日本]
1971年 2月8日 死去享年90歳
小川 千甕(おがわ せんよう、1882年10月3日 - 1971年2月8日)は、京都市出身の仏画師・洋画家・漫画家・日本画家。
本名は小川多三郎。
人物=
京都に生まれる。
15歳で仏画師・北村敬重の徒弟となり日本画を学ぶ。
一方で20歳の時には洋画家の浅井忠に師事し、洋画を学ぶ。
24歳からは雑誌『ホトトギス』の挿絵なども手掛ける。
京都市立陶磁器試験場の技手として絵付けに従事する。
28歳で東京に移り、『ホトトギス』『太陽』などに挿絵や漫画を発表し、人気を得る。
1913年(大正2年)から1914年(大正3年)にはヨーロッパに遊学し、帰国後は仁科展に油彩画を発表する。
その後、日本画家の平福百穂の主催する日本画グループである珊瑚会に参加すると日本画へ移行し、1921年(大正10年)には院展に日本画を出展している。
自由な表現できる日本画である「南画」を追求。
多くの作品を発表し、戦後にかけて文人への憧れから「詩書画」を多く手掛けるようになる。
1916年(大正6年)には山梨県東八代郡境川村(現・山梨県笛吹市境川町小黒坂)出身の俳人・飯田蛇笏(いいだ だこつ)が排誌『雲母』を創刊する。
小川は『雲母』の表紙絵を手がけており、1915年(大正5年)3月には『ホトトギス』同人の高浜虚子らが「甲州吟行」を行うと、蛇笏ら山梨県の俳人が一行を案内しており、この甲州吟行には平福や小川も参加している。
小川は1928年(昭和3年)にも山梨県を旅行しており、甲府 ……
小川千甕が亡くなってから、53年と287日が経過しました。(19645日)