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鵜殿長照(うどのながてる)

戦国武将[日本]

(永禄5年2月4日没)

(ユリウス暦) 1562年 3月8日 死去戦死

鵜殿 長照(うどの ながてる)は、戦国時代の武将。
今川氏の家臣。
三河国宝飯郡上ノ郷城主。
略歴= 弘治2年(1556年)今川氏に従っていた父鵜殿長持が死去したため、城主を継ぐ。
今川氏が西進政策を採り続ける中で、三河の東西を結ぶ意味合いを持っていた鵜殿氏の所領は非常に重要度が高かった。
そのため鵜殿氏の地位は向上し、今川義元の妹が生母ということで義元の甥にあたる長照も今川氏の親戚として重用された。
永禄3年5月(1560年)の桶狭間の戦い以前から、尾張大高城の城代に任命されていたといわれる。
だが、大高城は対織田戦線の最先端にあって身動きを封じられ、兵糧枯渇の窮地に立たされていた。
長照は城兵を鼓舞し、山野の草木の実を採取して飢えを凌いだと伝わる。
桶狭間の戦いの前哨戦となった松平元康(のちの徳川家康)の指揮による兵糧運び入れが賞賛されたのはこの時である。
窮地から解放されると、長照は元康と大高城の守備担当を交代させられる。
その後の使命や働きなどは明確でない。
本戦で義元が移動の小休止中に織田信長によって討たれると、元康よりも先に三河の本領に逃げ帰っている。
桶狭間の敗戦によって今川氏支配の領国は政治的に混乱し、その支配が弱まった三河では松平氏が急速に台頭する。
依然今川氏に属した長照は松平家康(元康より改名)と対立することになり、特に近隣領主の竹谷松平清善としばしば戦った。
長照 ……

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