荒木田麗女(あらきだれいじょ)
文学者、伊勢山田祠官[日本]
(文化3年1月12日没)
1806年 3月1日 死去享年75歳
荒木田 麗女(あらきだ れいじょ、享保17年3月10日(1732年4月4日)- 文化3年1月12日(1806年3月1日))は、江戸時代中期の女流文学者[1]。
初名は隆(りう)[1][2]で、のち麗[3](麗女[1][2])と改めた。
字は子奇[3]。
号は紫山、清渚[3]。
経歴=
実父は伊勢神宮内宮の荒木田武遠(たけとお)で[2]、13歳で叔父の外宮御師である荒木田武遇(たけとも)の養女となった[2][4]。
17歳から連歌を西山昌林(しょうりん)に学び[2]、のち花の下昌廸(はなのもとしょうてき)にも師事して連歌に精進した[2][3]。
22歳(あるいは23歳)で慶徳家雅(けいとくいえただ[3]、慶滋家雅とも[2])に嫁した。
彼女の旺盛な創作活動は、好学な夫の理解と援助によるところが少なくない[2][3]。
『宇津保物語』の研究を発端に物語制作を始め[2][3]、その著作年代は39歳から51歳頃にかけてにあたる[3]。
夫の死後は、連歌の第一人者として豊宮崎文庫の連歌会と自邸での月次回(つきなみかい)を指導した[2]。
最終的に彼女の著作は歴史物語、紀行文、文集、句集、随筆など約400巻にのぼり、非常に多作であった[2][3]。
山田八日市場の自邸にて75歳で没した[2]。
墓所は伊勢市浦口町旦過の一名天神山の上にある[2]。
法名は宝寿院霊雲浄光大姉[3]。
彼女は幼少より学を好み[5]、長じては和歌・連歌をものにし[5]、また多くの古典を渉猟し[2][3]漢詩・国史にも通暁して[5]、その学殖は著した歴史物語の流麗な擬古文によく現われている[ ……
荒木田麗女が亡くなってから、219年と122日が経過しました。(80112日)