佐田介石(さたかいせき)
僧侶・浄土真宗本願寺派→天台宗[日本]
1882年 12月9日 死去享年65歳
佐田 介石(さた かいせき、文政元年4月8日(1818年5月12日)- 明治15年(1882年)12月9日)は、肥後国出身の幕末から明治初頭にかけての浄土真宗本願寺派(晩年は天台宗)の学僧。
攘夷運動・梵暦運動の指導者、国粋主義者。
号は等象斎。
筆名に白川斎。
急激な西洋化に警鐘を鳴らし、仏教的天動説や自給自足論など日本独自の文明開化を説いた。
とくに外国製が国の成長を阻害するという佐田の「ランプ亡国論」は一時全国に知れ渡り、国産推奨の結社が各地で生まれた。
人物=
肥後国八代郡種山村(現在の熊本県八代市)の浄立寺住職・広瀬慈博の子に生まれる。
幼名は観霊。
後に同国飽田郡正泉寺住職であった佐田氏の養子となる。
少年時代は熊本藩の藩校で儒学を学び、18歳のとき学問修行として京都に出て、本願寺派やその他の教学を修学した。
地動説は翻訳された蘭書を通じて江戸時代末期の知識人のあいだでは定着していたが、仏教の宇宙観に立つ人びとはこれに反発し一派を形成した。
十余年に及ぶ修行の中、介石は仏教的天動説である須弥山説を唱える普門律師圓通に師事する。
『等象斎介石上人略伝』によれば、介石が須弥山説の研究に着手したのは30歳頃のことである。
その後、介石は故郷に戻り自ら仏教天文学の研究に勤しんだ。
1863年(文久3年)、45歳の介石は最初の天文関係の著作『鎚地球説略』を著す。
その後明治時代に入って『視実等象儀記』(1877年) ……
佐田介石が亡くなってから、141年と347日が経過しました。(51847日)