足代弘訓(あじろひろのり)
国学者、歌人[日本]
(安政3年11月5日没)
1856年 12月2日 死去享年73歳
足代 弘訓(あじろ ひろのり、天明4年11月26日(1785年1月6日) - 安政3年11月5日(1856年12月2日))は、江戸時代後期の国学者、歌人。
号は寛居(ゆたい)。
通称は式部・権太夫。
父は伊勢外宮祠官足代弘早。
伊勢国の人。
生涯=
伊勢内宮の荒木田久老に国学を学び、久老の没後は本居春庭・本居大平の門に入った。
伊勢国山田の鈴屋の師道者とし活躍した。
京阪や江戸に出て多くの文人と交流している。
大塩平八郎とも親交があったことから、大塩平八郎の乱において関与を疑われて取り調べを受けている。
神宮内では祠官の堕落に対して弊風を粛清する運動を展開、天保の大飢饉に際しては窮民救済の運動を行った。
幕末期には、多くの志士と交流し、一方で弟子の教育にあたった。
門下に正住弘美、志田義貫、生川正香、白井重固、渡辺政香らがいる。
作歌=
『皇国の四季』(共作)
足代弘訓が亡くなってから、167年と353日が経過しました。(61350日)