熊谷直彦(くまがいなおひこ)
芸州藩士、日本画家[日本]
1913年 3月8日 死去享年85歳
熊谷 直彦(くまがい なおひこ、文政11年12月14日(1829年1月19日) - 大正2年(1913年)3月8日)は、日本の江戸時代末期から大正時代にかけての日本画家、芸州藩士。
父は賀茂神社の神職・山本季金。
幼名を藤太郎と言った。
生涯=
雨中秋山図 東京国立博物館蔵 1912年(明治45年)
京都出身。
1841年(天保12年)の時、四条派の有力な画家であった岡本茂彦に入門、名を季彦、のち直彦と改める。
茂彦の死後は独学で日本画の技術を磨いた。
1844年(弘化元年)に、芸州藩京都詰衣文方であった熊谷左門の養子となって、熊谷直彦と名を改めた。
幕末になると芸州藩士として国事に打ち込むようになり、尊皇攘夷論者として活動した。
芸州藩執政・関忠親(蔵人)との関わりもあり、1862年(文久2年)5月に広島に入り、関の側近となった。
同年8月には、野村帯刀に従って上京した。
後に京都留守居役にも任じられた。
明治維新が成就、版籍奉還が行われた後は、広島藩大属となった。
その後東京に出て、積極的に絵画の道を再び歩み活躍、諸国を遊歴して山水景勝を自家薬籠中の物とした。
1884年(明治17年)第2回内国絵画共進会に「大江山」「鯛」を出品し銅賞を受ける。
また、明治宮殿造営に際し、杉戸絵を手がける。
1893年(明治26年)のシカゴ万国博覧会に「雨中山水」、1900年(明治33年)パリ万国博覧会でも同名の作品を出品。
1898年(明治31年)旧主浅野候から厳島神社に奉納され ……
熊谷直彦が亡くなってから、111年と258日が経過しました。(40801日)