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西山翠嶂(にしやますいしょう)

日本画家[日本]

(本名・卯三郎)

1958年 3月30日 死去享年80歳

西山翠嶂 - ウィキペディアより引用

西山 翠嶂(にしやま すいしょう、1879年(明治12年)4月2日 - 1958年(昭和33年)3月30日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本画家。
本名は西山 夘三郞(にしやま うざぶろう、新字体:卯三郎)。
来歴= 1879年(明治12年)に京都伏見に生まれる。
1893年(明治26年)に 竹内栖鳳の門下に入り日本画を学ぶ。
翌年から各展覧会や博覧会で入賞を重ね、若くして頭角を現して同門の西村五雲や橋本関雪とともに栖鳳門下として名を馳せた。
後に翠嶂は栖鳳の女婿となっている。
その後京都市美術工芸学校に入学し日本画の更なる研鑽に励んだ。
1907年(明治40年)の第1回文展に「広寒宮」を出品して三等を受賞したのを皮切りに、その後の文展にも出品を重ねて受賞や特選が相次いだ。
文展期の作品には「採桑」「落梅」「青田」などがある。
1919年(大正8年)に帝展が始まると過去の実績により審査員に選出された。
また自作の出品も重ねた。
帝展期の作品として「春霞」「木槿」「乍晴乍陰」「くらべ馬」「牛買ひ」などが挙げられる。
1929年(昭和4年)には帝国美術院会員に推薦された。
1937年(昭和12年)に帝展が改組された後は帝国芸術院会員を勤めるとともに新文展審査員の職責を果たした。
この頃の作品としては「雨余」や「洛北の秋」などがある。
栖鳳死後の1944年(昭和19年)に帝室技芸員に任命され、日本画壇の長老として重んじられた。
終戦後70代になってからも翠嶂は ……

西山翠嶂が亡くなってから、67年と258日が経過しました。(24730日)