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東城鉦太郎(とうじょうしょうたろう)

画家[日本]

1929年 6月30日 死去享年65歳

東城鉦太郎 - ウィキペディアより引用

東城 鉦太郎(とうじょう しょうたろう、1865年4月6日(元治2年3月11日) - 1929年(昭和4年)6月30日)は、明治から昭和にかけての日本の洋画家。
主に戦争画を得意とし、『三笠艦橋の図』をはじめとした、日露戦争における日本海海戦の戦況を描いた連作で知られる。
略歴= 田安徳川家に仕えた旧幕臣・東城景行の長男として、江戸小石川に生まれた。
普通教育を修めたのち印刷局で幼年職工として働き、20歳で同局技師となった。
その傍ら、川村清雄から洋画を学び、1890年(明治23年)に職を辞して画業に専念する。
日清戦争中の1894年(明治27年)、東京造画館の画工として、同館主・塚本岩三郎とともに「征清戦争油画」9枚を描いて宮内省へ献上、昭憲皇太后と皇太子(のちの大正天皇)がご覧になり、うち5枚が御用品となった。
翌年、第一軍司令部付の臨時雇を命ぜられ、日清戦争の戦争画を制作。
1897年(明治30年)、宮内省からの注文で平壌攻撃の絵を屏風に揮毫した。
1898年(明治31年)より秀英舎の石版部図案教授(嘱託)となり、この間、神田三崎町や浅草のパノラマ館などからの委嘱で、黄海の激戦や北清事変などを描いて好評を博した。
特に北清事変の制作に当っては現地を遊歴して描画に活かした。
1904年(明治37年)、海軍省より日露戦争の実況描写を命ぜられ、満州丸(観戦御用船)にて旅順に渡り、第三軍や連合艦隊に付随して観戦。
1910年(明治43年)1月より、イギリス ……

東城鉦太郎が亡くなってから、96年と156日が経過しました。(35220日)