須山知行 氏(すやまちぎょう)
箏曲家[日本]
(大阪音楽大学名誉教授、本名・中島知行)
2009年 2月17日 死去老衰享年90歳
父は池坊の生け花教師。生まれた頃から目が不自由で、大正14年母の郷里である広島の盲学校に進む。昭和5年宮城道雄に師事する為に上京、10年助教、11年教師の資格を得た。この頃、師が雅楽に傾斜していた影響を受け、その紹介で宮内省楽部の多忠記らについて雅楽を研鑽。12年郷里の旧朝鮮・京城に戻ったが、20年敗戦により本土に引き揚げた。門弟である中島警子を頼り結婚、また師の勧めで大阪を拠点に活動をすることとし、22年桐絃社を設立、第1回演奏会ではJOBKの大阪放送管絃楽団と共演した。その後、オーケストラとの共演に際して、琴はどうしても音量的に弱いことから、大阪大学の北村音壱に協力を仰ぎ、琴の改良にも取り組んだ。演奏会では、グランド箏コンサートとレクチャーコンサートを隔年で開催。大阪音楽大学の箏専攻創設にも関わり、同大教授も務めた。この間、31年6月、大阪での公演へ向かう途中の師が刈谷駅付近で乗車していた列車から転落死すると、すぐに刈谷に向かったが、宮城喜代子の師事により代演を指名されており、師の遺骸との別れを惜しみながら慌てて大阪に戻り、無事に追悼演奏を終えた。また、尺八奏者の吉田晴風にもかわいがられ、その託宣により芸名の読みを本名の“ともゆき”から“ちぎょう”に改めた。作品に「箏合奏協奏曲第1番」、著書に自伝「箏の道」などがある。(参照元・日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」)
須山知行さんが亡くなってから、15年と277日が経ちました。(5756日)