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青木昆陽(あおきこんよう)

蘭学者[日本]

(明和6年10月12日没)

1769年 11月9日 死去享年72歳

青木昆陽 - ウィキペディアより引用

青木 昆陽(あおき こんよう、元禄11年5月12日〈1698年6月19日〉 - 明和6年10月12日〈1769年11月9日〉)は、江戸時代中期の、幕臣御家人、書物奉行、儒学者、蘭学者。
サツマイモの普及を図り、甘藷先生(かんしょせんせい)と呼ばれる。
名は敦書(あつのり、あつぶみ)、字は厚甫(原甫とも)、通称は文蔵、昆陽と号した。
生涯= 大岡忠相による抜擢= 江戸日本橋小田原町(現在の東京都中央区)の魚屋・佃屋半右衛門の1人息子として生まれる。
先祖は近江国の人で、蒲生氏一族という。
浪人として京都の儒学者である伊藤東涯の古義堂に入門して儒学を学ぶ。
江戸町奉行所与力・加藤枝直(又左衛門)と懇意で、享保18年(1733年)に加藤の推挙により南町奉行・大岡忠相に取り立てられ、幕府書物の閲覧を許される。
サツマイモの普及= 享保17年(1732年)に起きた享保の大飢饉は日本全土に被害をもたらした。
しかし、享保期に薩摩国では既にサツマイモが伝来して農耕作物として普及定着していたと推測されており、サツマイモの栽培は飢えから人々を救っていた。
昆陽は京都で学んでいた頃に書物によって甘藷(サツマイモ)が救荒作物として重要であることを知ったとされる。
昆陽は甘藷を栽培して救荒食とすべきことを江戸幕府8代将軍・徳川吉宗に上書し、これが認められて甘藷試作地として下総国千葉郡馬加村(現在の千葉市花見川区幕張)、小石川薬園(小石川植物園)、上総国山辺 ……

青木昆陽が亡くなってから、255年と10日が経過しました。(93149日)