平岡凞(ひらおかひろし)
鉄道技術者、野球指導者[日本]
1934年 5月6日 死去享年79歳
平岡 凞(ひらおか ひろし、1856年9月17日(安政3年8月19日) - 1934年(昭和9年)5月6日)は、日本の鉄道技師、野球選手・指導者(監督)、実業家、三味線の東明流の創始者。
芸名は平岡吟舟。
日本で最初の野球チーム創設者と言われているほか、日本初の民間鉄道車両メーカーである平岡工場の設立と経営に携わった。
人物=
アメリカ在留時代の平岡
三味線を弾く平岡
田安徳川家の家老の家である 平岡凞一の長男として江戸に生まれる。
孫には平岡精二(ペギー葉山「学生時代」の作詞・作曲などで知られる)、甥・姪には平岡養一(シロフォン奏者)、平岡露子(フィギュアスケート選手)がいる。
1871年(明治4年)アメリカへ自費留学したが 中退して機関車工場に工員として働き、機関車・機械類製造技術のほかベースボールを修得し1876年(明治9年)に帰国した。
平岡は工部省鉄道局に入り1886年(明治19年)に四等技師 まで昇進するが、独立して1890年(明治23年)匿名組合平岡工場を創業。
1894年匿名組合を解散し、個人経営の工場となる。
1899年(明治32年)に創業した汽車製造の副社長 となるが1901年(明治34年)平岡工場は汽車製造に買収され、汽車製造東京支店になる。
日本の野球の祖とされている。
また、日本で初めてカーブを投げた人物とも言われており、アメリカ留学中にそれを習得した。
「魔球」と呼ばれ、学生野球の投手たちがその投げ方を教わるために彼の元を訪れたとい ……
平岡凞が亡くなってから、90年と199日が経過しました。(33072日)