秦テルヲ(はたてるお)
日本画家[日本]
1945年 12月25日 死去享年59歳
秦 テルヲ(はだ てるを、明治20年(1887年)3月20日 - 昭和20年(1945年)12月26日)は、明治から昭和にかけて活動した日本画家。
本名、輝男。
名前の読みについては、広島市内の秦姓はすべて静音で「はた」と読むというが、テルヲ自身は「はだ」と濁音で読ませた。
経歴=
明治20年3月20日広島市に生まれる。
幼少期に一家で京都市に移住するが、まもなく父が死去。
貧困の中で明治37年京都市美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)図案科を卒業する。
千總の輸出用ビロード工場に勤める傍ら、京都や神戸の貧困街や労働者の写生に励む。
明治42年、前衛的な日本画家たちの研究会と展覧会を目的に千種掃雲らによって結成された「丙午画会」に参加。
また、日本画家(土田麦僊ら)と洋画家(津田青楓ら)による研究会「黒猫会」に参加したほか、榊原紫峰、野長瀬晩花、平井楳仙や京都大学の若い文学研究者らと「バトサヤ」を結成したが、両会はまもなく解散消滅し、以後は個展発表を中心に活動するようになる。
《血の池》大正6年頃、京都国立近代美術館蔵
この頃から漂泊生活を送っており、女性問題を起こして京都から大阪に逃げ、神戸に住まうこともあり、ついには吉原研究のために東京へ向かった。
本人も奇抜な風貌や言動で知られた。
大正元年第2回個展では「アゝ酒、と女、と腐れた肉」等と記したパンフレットの通りのセンセーショナルな画題のため警察に呼び出され、また大 ……
秦テルヲが亡くなってから、78年と294日が経過しました。(28784日)